文月遊亀 memo*

日々のこと、音楽や本のこと、心の赴くままに書いています。
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11月10日(木)『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生より』

日本人って意見をあまり言わないし、対話を避けようとするところがあるなぁ…と、ここ数年とみに感じていて。そもそも意見を言うこと自体疎まれる傾向があるなぁと。
で、「意見を言い合う=喧嘩」
となりがちなのはなんでかなぁ?って、わたしは対話したいだけなのになぁって思っていた。

そんなわたしにフィットしたのがこの本。

ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生より』(平田オリザさんと北川達夫さんの対談集)
やー、目から鱗でしたよ。名言の嵐。

まず、意見を言うということは必ずリスクが伴うって指摘。当たり前なのだけど…認識不足だったかもしれない。
このブログもそうですね。いろんな立場でいろんな意見があるのは当然なので、1つの意見を言うことは本来、非常に難しいことなのですよね。
まずはそのことをしっかり認識すべしと自らを戒める。

そして、「価値観の押し付け」ということについても、もっと敏感でありたいなと思った。
日本の国語教育は一つの方向に導いていくような教え方をする、そのほうが楽だから、と語られている箇所があって。
自分自身そういう授業を受けたし、教育実習で教えたときもそうだったなと思った。
でもそれは価値観の押し付けになってしまうとの指摘に、ハッとした。

フィンランドでは「心とか考えというものは全員違うのがあたりまえ」と思っているから、こう感じなければならないんだという指導はむしろ罪に近いとのこと。
ひゃー、日本の教育は罪だらけだよ。教師はみんな罪人(笑)。
あ、北川達夫さんはフィンランド教材作家さんです。

平田:「読書をすれば心が豊かになります、だから読書をしましょう」ということもふつうに言われていますが、「他人の心が豊かであるかどうか」の判断がなぜあなたにできるのか、そんなことはあなたが決めることではない、それは子どもといえども個人の内面に踏み込むことだという感覚が、大人たち側にあまりにもないんじゃないかと思うんです。(p.10)

いやいや、こういうこと、言っちゃいがちですよね、好きですよね、日本の学校って。
教師じゃないけどわたしも言いがちだなと反省。
でもほんと、おっしゃるとおりですよ。他人の心が豊かかどうかなんて、わかるはずがない。

と、いきなり教育の話になりましたが、
それが対話とどうつながってくるかというと、そういう教育を受けた人間は自分の頭で考えて意見を述べたり、人の意見を聞いて自分の意見を柔軟に変えたり新しい価値観を生み出していくというようなことが苦手になっちゃうんじゃないかなと思ったわけです。
考えることを放棄したり、一方向にしか考えられなくなるんじゃないかな、と。
自分も含めて、ですよ。

間違いなく日本は強力な同調主義の国だと思います。
人と違っていることを恐れる。みんな一緒でなくてはならない。
そうなっちゃったのは、島国で、鎖国してた時期が長かったり、その他いろいろ、本当にいろいろな要因があるだろうし、「以心伝心」てのはとても優しいコミュニケーションで、良いところもあると思う。
でも、これがこの本の主題なわけだけど、これだけ多種多様な考え、国籍の人たちが一緒に住むようになると、このままではダメだと。わたしもそう思う。
現にここ数年、わたし自身が困難な場面に直面してもいる。

「対話」ではなく「喧嘩」になるっていうのは、三谷幸喜監督の『12人の優しい日本人』がまさに日本人のその性質をとらえた作品だったな。
子どものような喧嘩で…これ大好きな映画ですけど。

話がそれました。
ではどうしたら対話になるのか…
それが語られてる部分を引用しておしまい、にします。

対立を恐れないこと、変わることを恐れないこと。対話にはこの姿勢が必要。

ただ、問題は、自分ひとりが心がけても相手もそのような気持ちでなければ「対話」にはならないってことだよなぁ…
やっぱり「教育」が大事だと思います。

北川:相手の見解があって自分の見解がある、それが対立する、対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか、そこを重視できるかですよね。回避をせずに、対立を恐れないでぶつかって、そのうえでお互いにどう変われるか、そのプロセスを理解することが対話では重要になってきます。回避してしまえば、その場の摩擦を避けることはできても、お互いすれ違いですから、本質的な問題は何も解決しません。

平田:お互いが変わっていくことを前提にして話し合いをはじめられるかどうかが大きいですよね。どちらかが勝つか負けるかではなくて。でも、どうしても勝ち負けになってしまいがちなんですよね、日本の場合は。両方が変わるということをなかなか前提にできない。

北川:勝ち負けになるか、どちらも引いてしまって、互いに不満なところで妥協点を見つけてしまうか。
ただし、妥協というのを否定的にとらえると、これまた対話はできなくなってしまいます。ここで議論やディベートと混同してはいけません。議論やディベートは相手を説得することが目的だから、妥協というのは、お互いに説得に失敗したということで否定的にとらえざるをえない。
しかし、対話というのは、価値観を意図的に衝突させ、それによってお互いに変わっていく作業なのですから、ある意味で前向きに妥協点を探す作業ともいえるんですね。
多文化共生というのは、相手を圧倒するとか、相手に圧倒されることを前提とするのではありません。いっしょに生きていくことを探っていくことなんですから、お互いにとってどうするのがハッピーだろうということになる。価値観が違うのならば、お互いの価値観をすり合わせて、ハッピーな妥協点を見つけていく。そのためには、お互いに変わっていくしかないんですよね。
(pp.167-168)

| 本・雑誌 | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0)
11月8日(火)9.19「さようなら原発集会&デモ」武藤類子さんの演説

もう約2カ月前の話ですが。
一向に収束しない原発事故。一方ですでに忘れかけようとしている首都圏の雰囲気。
このままではいけない、何とかせねば…
その思いだけで、9月19日、明治公園で行われた「さようなら原発集会&デモ」に行ってみた。
勇気を出して。思い切って。
一体何をしたらよいのかわからず、だけど、何かしたくて。いても立ってもいられなくて。

こういう集会に参加するのは初めて。
たくさんの人、たくさんの上り旗。○○組合、○○連合、○○党…、
場違いだったかしらと心細くなる。


不安な気持ちのまま、とにかく演説を聞いた。
人が多くて、舞台に近づけない。かなり離れたところから聞いていたため、演説者のお顔はまったく見えない。声に耳を傾ける。
落合恵子さん、大江健三郎さん、別の集会に出ていたため遅れたという山本太郎さん…それぞれ素晴らしかったけれど、一番印象に残ったのは福島から来られた女性のお話だった。

思わず途中から、かばんの中に入っていたICレコーダーを取り出して録音してしまったほど。

今日twitterで知ったのですが、その演説が文字起こしされてネットにアップされている!
こちらです。

武藤類子さんという方の演説だったのですね。

皆さん、福島はとても美しいところです。東に紺碧の太平洋を臨む浜通り。
桃・梨・りんごと、くだものの宝庫中通り。猪苗代湖と磐梯山のまわりには
黄金色の稲穂が垂れる会津平野。そのむこうを深い山々がふちどっています。
山は青く、水は清らかな私たちのふるさとです。

3.11・原発事故を境に、その風景に、目には見えない放射能が降りそそぎ、私たちはヒバクシャとなりました。
……

涙が出るのでした。周りの人も泣いていました。
マスコミ報道ではなく生の声を聞いたのは初めてでした。「そうだったのか…」の連続。

そして、こんなことがあってよいはずがないと怒りがわくのでした。
自分のふるさとがこんな目にあったらと思うとたまらない気持ちになるのでした。
そのような気持ちで、日本人全員が、一人ひとりが原発問題を考え、行動しなくてはならないと思いを新たにするのでした。

ぜひ、リンク先をクリックして動画をご覧になってください。10分間のスピーチです。
文字起こしされた文章を読むこともできます。

-----
勇気を出して、来てみてよかったと思いました。
デモにも参加し、表参道、渋谷の街を「原発反対! いのちが大切!」と口に出して歩き回った。
いつも思っていても言えないことを声にして訴える心地よさ。仲間がいる心強さ。
街で買い物を楽しむ沿道の人たちのなかには、ニコニコ笑って手を振って同意を示してくれる人もいた。
終点地点まで行って折り返して来る人たちも手を振ってくれる。わたしも手を振り返す。
同志がいる。また涙が出そうになった。

自分の意思で行動することができたこと、
原発はいらないと声をあげられたこと、
福島の方の生の声が聞けたこと、
同志がいると確認できたこと。

緊張もしたし不安もあったけど、大きなものを得た。
その日のニュースで、この集会&デモには6万人もの人が集まったと聞きました。



最後に、武藤さんの演説の最後の部分から。
本当におっしゃるとおりだと思う。
やはり一人ひとりが考え行動しなくては。本気で。わたしたちにはその力がある。

人類は、地球に生きるただ一種類の生き物にすぎません。自らの種族の未来を奪う生き物がほかにいるでしょうか。 
私はこの地球という美しい星と調和したまっとうな生き物として生きたいです。
ささやかでも、エネルギーを大事に使い、工夫に満ちた、豊かで創造的な暮らしを紡いでいきたいです。

どうしたら原発と対極にある新しい世界を作っていけるのか。誰にも明確な答えはわかりません。
できうることは、誰かが決めた事に従うのではなく、ひとりひとりが、本当に本当に本気で、自分の頭で考え、確かに目を見開き、自分ができることを決断し、行動することだと思うのです。ひとりひとりにその力があることを思いだしましょう。

| 原発 | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0)
11月6日(日)『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』

銀座で『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』を観てきた。
その昔ヴァイオリン弾きのSちゃんとグールドの映画を観たっけなぁ。あれも確か銀座だった。

今回の映画は、グールドが親しかった人たち、とりわけかつての恋人たちの証言をもとに人間グールドの実像に迫ろうとするもの。
小さいころの話、若いころの話、晩年(グールドは50歳の若さで死去)の話、
エピソードの数々が興味深く、グールドの語ることもその様子もおもしろかった(早口なの)。
あの独特のうなり声(歌い声)は、小さいころにお母さんから歌いながら弾くように教えられて、それが癖になっちゃったんだとか。
独特の粒だった音は、教わっていた先生の指導によるところが大きいとか。
同じ先生に教わっていた女性が弾いてみせてくれたのが、グールドの音とそっくりだったのでびっくりした。

かつての恋人は「知的でユーモアがあった」と言っていた。
いつまでしゃべっていても飽きなかったんだって。
そうだったんだなぁ。
イケメンで、知的でユーモアがある天才…そりゃあ魅力的だよね。

だけど結婚には結びつかなかった。
芸術と結婚という安定とが両立しえなかったんだと。だから生涯独身だったのだと。
ブラームスの言葉を引用したりして語られていた(ブラームスも生涯独身でした)。

芸術家は本当にそういう人が多いですね。家庭をもっていても破綻したり。
常に新しいものを生み出していかなくてはならない、創造的であるということと結婚という形は相容れないものなんだろうか。
その意味でグールドは典型的な芸術家だったといえるのだろうなぁ。

でも、息子の結婚を意識させまいと、親友の結婚式に両親を参列させようとしなかったり、
そんなごくごく普通の感覚、愛情ももっていた。優しい人だったんだと思う。
お母さんが入院したときには感染を恐れて病院にお見舞いに行かず、
死に目にも会えなかったことを生涯後悔していたという。

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自前の異常に背の低い椅子に座り、歌いながら奏でるのは従来とまったく異なる演奏。
そして晩年はレコーディングに没頭。コンサートからは足を洗ってしまった。
これは今のポップス的な音楽の作り方…。
先取りしていたんだなぁと、この点でも一歩先を行っていた人だったのだと改めて思った。

わたしは大学生のころ、ベートーベンのソナタ「月光」(特に自分が弾いてたから印象的だった)を聴いて、あまりに速くて、しかもその正確な粒だった音、酩酊するような見事な演奏に腰を抜かした経験があります。
クラシックでこんなことやっちゃっていいの!?って。

ピアニストのアシュケナージさんが「なんだこれは!」とびっくりしたと話していましたが、誰もがそう思うに違いない。

「グレンは音楽を一度ばらばらにして再構築する。時計を分解して再構築するように」
って証言があったけど、あぁ、なるほど…
あの演奏はそういうふうにして生まれているんだなぁ。すごく納得がいく。
だから他の演奏家とはまったく違うんだ。

実はわたしはグールドの演奏って以前はあまり好きじゃなかった。
声が入っているのも邪魔だと思っていた。
天才だと思うし、人となりにもすごく興味があったけど、好き嫌いでいえば大好きというわけではなかった。
でも今回映画を観て、また違った聴き方ができそうだなぁと思った。
「芸術家には何よりもオリジナリティが大切だ」「音楽の素晴らしさを届けたい」という姿勢や思いがよくわかったから。

象に向かって歌を歌ったり前衛映画みたいのに出て変な踊りを踊ったりしてる映像もあった。
笑ってしまったけど、貴重な映像だね。

音楽に人生のすべてを捧げた人。いつもいつも自分の音を表現していた人。

グレン・グールドという人が大好きになりました。
また観たい映画です。

さっそく演奏を聴いてみようと思って引っ張り出してきたら3枚ありました。下のがわたしが腰を抜かした、「月光」も入ったベートーベンのソナタ集。

で、気づいたのだけど、かの有名な「ゴールドベルク変奏曲」はどこ行っちゃったの?? 探しても、ない!誰かに貸したんだっけ?

わたしすぐ人に貸してしまって返ってこないことがあるからなぁ…

これ読んでくれていて、そういえば借りてる!なんて心当たりのある方がいらっしゃったらご一報を〜!(ないと思うけど^^;)


| 映画 | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0)
11月2日(水)神田古本まつり

神田古本まつり開催中ですよ。
明日までですよ。

古本屋街はちょうちんが飾られて「まつり」の雰囲気。
普段より値引きされたたくさんの本が店の表に並べられて、
歩けば色んな本が目に飛び込んでくる。楽しい。

老若男女(でもオジサマが7割)が古本を物色する様は例年通り。

でも、本の世界は変わりつつある。
書籍が電子化されていくと、以前よりも、形のある「モノ」としての魅力が増していくような気がする。

持ったときの重み、布の表紙の肌触り、指でページを繰る感覚、印刷の匂い。
それらが貴重がられるようになっていくような。
中身の情報は電子でいいやってなっていくような。

古本は、新刊よりも、なおそうした要素が増えるよね。
シミとか黄ばみとか。誰かが読んだ息遣いも。

そんなことを考えながらそぞろ歩く。





| 本・雑誌 | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0)
11月1日(火)大地を思いやるという感覚

秋も深まり、気がつけば11月。
今年もあと2カ月しかないというわけで慌ててブログを書いてみたり。

放射能のことは、いつもどこかで気にしている。
雨が降れば濡れても大丈夫なのかなと心配になるし、水も飲めないし、
お茶を飲むにも野菜や魚を食べるにも、気にしないわけにはいかない。

だけど、雨に濡れたり食べたり飲んだりしないわけにはいかない。

なんということだ。
そんな事態になったことが、そんな時代に生きることになったことが、悲しくてやりきれない。
わたしたちの自然を返してほしい。

福島では村がいくつも消えた。
子どもたちが外で出られなくなっている。砂場で遊べなくなっている。
子どもは自然と触れ合いながら成長するというのに。
それを禁止しなければならないとは。自然と触れ合って生きることができなくなったとは。
子どもたちから人生の喜びを奪わねばならないとは!

チェルノブイリ以上だって?
あぁ、なんということが日本で起きてしまったのか。

そして放射能の問題と同じかそれ以上に不気味なのが、
これだけの大事故を起こした日本がいまだ目覚めず、反省もせず、
物事の本質を見ようとしないこと、変わろうとしないことだと思う。
「安全です」と繰り返される報道は「戦争に勝つ」といい続けた大本営発表そのもの。

わたしは、自分がこれまで生きてきたなかで、権力の恐ろしさを、国の無責任さを、
こんなにも骨身に染みて感じたことはなかった。

今こそ、本当にわたしたちの生き方が問われていると思う。
もっと、もっと、危機感をもたなくてはいけないと思う。
本気で変わらなければならないと思う。
この国には、そういう覚悟が、気概があるだろうか。甚だ疑問です。

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『婦人之友』9月号の「風にきく、大地のうた」という座談会記事を読みました。
フランス国立社会科学高等研究員教授のベルク氏が、こんな発言をしてました。

人間の「人」は私たちの個々の存在、「間」は間柄、
つまり人間の共通的な面を表すのですね。他の人との関係だけではなく、自分の環境のものとの関係でもある。それを大事にしなくてはならない、そうでなくては人間にはなれない。


そしてその間柄とは、現在だけではなく将来についても言える、と。
だから、放射能や廃棄物を子孫に残す原子力は人間の構造を否定する、と。
原子力は風土にとって一番根本的な人間の存在に反する、とおっしゃる。その通りだと思うんです。

この座談会の冒頭に、
アイヌの詩人・宇梶静江さんの「大地よ」という詩が載っていた。

大地よ
重たかったか
痛かったか

あなたについて
もっと深く気づいて
敬って

その重さや
痛みを知る術を
持つべきであった

多くの民が
あなたの
重さや痛みとともに 波に消えて
そして
大地にかえっていった

その痛みに
今 私たち
残された多くの民が
しっかりと気づき
畏敬の念をもって
手をあわす

自分たちよりも大地のことを先に考えるとは、なんという心やさしい感覚なのでしょう。
こんな感覚がわたしたちに備わっていたら、原発の事故は起こらなかった。

ニュージーランドのマオリの人の自己紹介は、今でも
「私の山は○○です。わたしの海は■■です」で始まるそうです。
自然が自分を作っていて、その絆が切り離されたら自分は存在しないという考え方。

原発は何かあったとき、その場所性を全部断ち切るもの。人間が人間として存在できなくなるってことだと思う。
子どもたちが野や、山や、海で遊べない世界なんて、絶対に間違っている。
自然を思いやる心も育ちにくくなるでしょう。
この悪循環を断ち切りたい。

今こそ取り戻したい。
わたしたち先進諸国の人間が勘違いして、奢って失いかけた、いや完全に失ってしまった、
大地を思いやるような感覚を。

| 原発 | 21:48 | comments(1) | trackbacks(0)
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