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津島佑子『火の山 山猿記』(上)、
(下)
ああ、読み応え十分、どっぷり浸って、まるで自分が有森家の子孫で、祖父の残した記録を読んでいるかのような錯覚すら覚えつつ読んだ。
言わずもがな、NHK連ドラ『純情きらり』の原作(帯には「原案」と書かれています。確かに原作というには色々違いすぎだもんな)。
番組終了後、上巻はやすやすと手に入れたものの下巻を探して本屋をうろうろ。ようやく手に入れたのは昨年末。よって上巻は10月、下巻は1月と、3カ月ほどタイムラグを経て読了。
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小説『火の山 山猿記』とドラマ『純情きらり』は、ほんとに別物と考えていいと思う。
ドラマで岡崎となっていた舞台は小説では甲府で、富士山を重要なファクターとして話が進むので、これを岡崎に変えた時点で、別のお話になっているのだ。原作のエッセンスをうまく抽出しているとはいえ。
小説もドラマもそれぞれ素晴らしい。
この小説からあの脚本を書き起こしたのもすごいよなあと思う。
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小説は、アメリカに移住した勇太郎の晩年の日本語で書かれた「記録」を孫のパトリス・勇平が友人たちの助けを借りて読み解いていく……というややこしい構成をもつ。
読み始めはだれしも家系図がほしい! って混乱すると思う。そのうち「記録」を読むのに夢中になるのだけど。
この複雑な構成についてもう少し詳しく説明すると――。
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※自分自身の頭を整理するためもあって書きますが、すみません、長いです!)
そもそも「記録」は、勇太郎が、姪の由紀子に「有森家の昔の話を聞かせてほしい」と請われたのに端を発し、由紀子と、そして娘の牧子にあてて書かれたもの。
勇太郎から、すべて日本語で書かれたこの「記録」を預かった由紀子は、アメリカ育ちの牧子のために、英語なりフランス語なりに訳して牧子に渡そうと思うが、手元においたままに。
由紀子がこの記録を牧子に送らなければと思い出したのは、自身がガンで手術を受けることになったからで、訳す時間もなくなった由紀子は日本語のまま牧子ではなく、その息子パトリス・勇平にあててこの「記録」を送る。なぜなら、牧子は日本語が読めないし、牧子宛てに自分の手紙を添えてこの記録を送るのでは「遺書そのものになってしまう」から。「さすがにそれはつらくてできない」。
そこで由紀子は、写真でしか見たことのない、まだ2歳のパトリス・勇平宛てにして手紙を書き牧子に送る。「日本語を勉強してほしい」という牧子の願いがかなっているのなら、20年後、25年後に勇平が読んでくれるだろうと想定し期待して。
そして実際にこの手紙と「記録」が読まれるのは、由紀子が想定したとおりパトリスが青年になってから。もちろん由紀子は亡くなっている。
フランス育ちのパトリスは日本人の友人と、クニコという年上の女性の力を借りて読み進める。わたしたち読者も一緒に……。
(ああやっぱり長くなった…)
この日本人の友人は女性らしいのだけど名前が出てこない。
彼女はパトリスが「記録」を解読する間に仕事の都合で日本に帰り、パトリスに日本に遊びに来るよう電話で誘うが、そのやりとりが小説の途中で挿入され、これがまたややこしい。
必然的に読者のわたしたちも、現在と過去、日本、アメリカ、フランスと、時間的も空間的にも、あちこち飛び回ることになる。
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これは有森家という、日本における、あるひとつの家系の物語だけれども、同じ歴史を共有している日本人なら共感できる部分が多々ある。
戦争があり、徴兵があり、疎開があり、敗戦後の食糧難や復員……わたし自身が祖父母や父母から聞いた話と重なる。有森家の子孫になった気分で読み進めてしまうのはそういうわけなんだろう。
勇太郎の「記録」を読むうち、脈々と受け継がれてきた命の継承者であり、ただ生まれ、生きて、死んでいく存在である自分が意識される。
そして、自分とは自分ひとりで完結するのではなく大きなうねりの一部に過ぎないのだという謙虚な気持ちになる。
「始まりがあれば、終りがある。単純な終り。後悔も満足もない。ただ、それだけ。死とはそうしたもの」(桜子の書き記した言葉より)
下巻では主に、桜子と笛子の、女の人生に焦点が当てられる。
桜子が自分の命と引き換えに新たな命を生む。これはドラマの後半と一致するところ。
自分が死んだって、子を産めば命は続いていく。生まれ、成長し、子を生み、死んでいく……そんな人間のそばに、富士山はもっと長いスパンで存在している。これまでも、これからも。
富士山のそばで生きてきた有森家の物語は、わたしやあなたにもどこかで連なる、どこかで重なる物語でもあるかもしれないなあ、と思った。
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分厚いけど、読み始めるとぐいぐい読めてしまう。とくに下巻に入ると加速します。ぐっときて目頭が熱くなる箇所も。
入り込むと抜け出せなくなる面白さ。