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そういえばいつからやってんだっけ? と、またもこのブログで調べました。
おお、2005年12月29日と、2006年8月16日に開催されてる! そんな前だったんだ!
「毎年恒例の」と書いてるからもっと前からやってるのかな。忘れちゃった。
当時は「ししA会」じゃなくて「ししA祭り」と言ってたんだ〜
すごいねー記録って。記憶はあてにならない。
これ読んでて、すごい新鮮だもの。そんなことあったっけね、って。やっぱりすべては覚えていられない。
しかしよく飲んでたこと、おしゃべりもすごい。
2005年はらむこ邸に宿泊、2006年は記憶をなくしてる^^;
2015年の今回も、よくしゃべり、よく飲んだ。おいしくて、楽しくて、懐かしくて、ほんとにうれしい。
結婚を機に、離れていた糸がまたより合わさった。
ありがたいことだと思う。
人間関係って、そんなふうでいいんじゃないかな。
雨粒みたいに、くっついたり、離れたり。
出会うのも縁だし別れるのも縁。別れてまったくっつくのも縁だしそこからまた別れるのも縁。
なんて素敵な経験をしてきたんだろうわたしは。
この世に生を受けたおかげで、いろんな経験ができる。
うまく言えないけど、こういううれしいことがあると、辛かったことも含め、人生を丸ごと抱きしめたくなるよ。
明石家さんまの「生きてるだけでまるもうけ」じゃないけど、ほんとそうだなあと思う。
広島に原爆が投下されてから70年目の夏。
出勤前の8時15分、毎年テレビ中継される平和記念式典を見ながら、黙とうした。
70年という節目の年だけど、原爆投下から何年たったか、が重要なのではないよね。
この経験から何を学ぶか、だと思う。
どうして人間はこうも忘れやすいんだろう。
広島の原爆慰霊碑に刻まれた、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉。
その思いを実現するために、集団的自衛権を認めることが、自衛隊の活動範囲や、使用できる武器を拡大することが必要なの? なぜ?
首相いわく、「再び“戦争を行う国”になることは断じてない」らしいけど、戦争の足音が聞こえてくるようで、恐ろしい。
わたし、日本人として9条を誇りに思ってきたのに。
憲法の解釈を勝手に変更するって、何なのだ? 学者さんたちも憲法違反だって言ってる。
これが民主主義の国か? 独裁者みたいだ。
福島の事故しかり。もはやなかったことのようにして、そして、想定される危険には目をつむって、原発中心の、これまで通りの体制でやっていこうとしている。
数年前のあの原発事故、忘れちゃいけない。絶対に。
なぜ学ばない?
原発は危険だよ。どうしてあんな大がかりで危険極まりないもので電気を作らなくてはいけないんだろう。
首都圏に暮らす人間のために一部の地域の人が犠牲になるなんてことも、どう考えてもおかしい。
どうしてどうしてどうして。
暮らし方は、変えられる。
1人ひとりの意識を変えることによって、社会は変えられる…はずだけど、それがなかなかできない。
便利さに頼って、何でもかんでも面倒がってしまうのは、いけないと思う。
電気の使用量は事故後ずいぶん減ったらしいけど、もっと少なくできる。
そうすれば、電気を作る量も少なくて済む。
原発以外の方法で、電気を少しだけ作る社会…
それは理想郷なの? なぜできないのだろう。
今や、こんなことを言っていると煙たがれるような雰囲気だ。
わたしは「裸の王様」に出てくる子どもみたいかもしれない。
わたしだって普段は言えない。こんな話をしても白けるだろうし。
でも心の中では思っている。
大人の事情など知らない。原発は間違ってる。9条の解釈を変えるというのもおかしい。
思っているだけじゃいけないと思いつつ、場の空気を読んで生きているというか。
もっと普通にこういう話ができるといいのに。すごく難しい問題だけど。
毎日今日こそは停電が行われるか?と思っているのだけど、
結局ならず。ありがたいことですが。
そしてわたしはなかなか節電ができない。
持っているロウソクに火をつけて夜を過ごしてみようとしても、やはり暗い。
本が読めない。何もできない。
結局、すぐに電気をつけてしまう。
生まれたときから電気があったからな。いかに電気の明かりとともに生きてきたかってことを思い知る。
唯一、今日から、電気で温めていた便座に専用カバーを付け、電気を切った。
そして、髪はドライヤーではなく灯油ストーブで乾かしている。
母はどこにもお米と牛乳がなくて困ると言っている。
だけどまあ、そのうち何とかなるんじゃないかしら。麺類もあるし、強力粉があればパンは焼けるし。
わたしは先ほど明日の朝食用に、スキムミルクを使ってパンケーキのタネを作りました。
あおられないように。あおらないように。
パニックにならないように。
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たくさんの人が、自分も何かしたいという気持ちでいっぱいだと思う。
励ましたいっていう気持ち、すごく尊いと思う。励まし合うことは人間に与えられた素晴らしい能力だとも。
でもね、励ますって、本当は、すごく難しいこともある、とわたしは思うんだ。
たとえば、うつ病の人に対して「がんばれ」が禁句というのは世間一般に浸透しつつあるけれど、
そんなふうに、立っている場所が違うと、励ましのつもりが、逆に苦痛を与えることになりかねない。
だから、まず大切なことは、
気持ちを受け止めるということだと思う。
たまたま京都の詩仙堂でもらってきた「禅の友」という小冊子に、
共感できる文章が載っていました。
「自殺を防ぐ活動から」というシリーズで、自殺防止の、かなり心が弱った人向けの対応なので、
震災時とは少し違うかもしれないけど、辛い気持ちを抱える人が増える状況だし、
わたし自身心にぴったりきたので、
少し長くなるけど全文を引用してみます。
「感情を受け止める」
三重県萬重寺(まんじゅうじ) 西 育範
自殺を考える人には、それだけの困難な事情があります。人によってさまざまな問題ですが、平均すると四つぐらいの複数の問題を背負っていると言われています。
例えば、家族や職場の人間関係、心の病、経済苦、失業など。大雑把に分類して、このような問題が目立ちます。
そのような話を聴く時に、一つ大切な注意点があります。それは「感情に焦点を当てる」ということです。感情、気持ち、気分、心境、心情、それらを聴き逃さずにしっかりと集中します。
しかし、相談を受けているとつい、「なぜ人間関係が悪くなったか」とか、「どうすれば良好になれるか」ということに興味が湧いてしまいます。
ところが、これらはあまり重要ではなく、その人が、今、どんな感情を抱いているのか、ということが大切です。
もし人間関係に苦しんでいるなら、相手の人に対してどのような感情を抱いているのか。話しかけられた時にはどんな想いがするのか。一緒に居る時はどんなことを考えているのか、などに注目します。
なぜ、それほど感情が大切なのでしょうか。それは、感情はその人の心の奥底の本音だからだと、私は思っています。または、その人の人格と言っていいでしょう。その感情を聴いて、受け止めることに努めます。
つまり、感情を聴くことはその人の本音を聴くこと。感情を受け止めることは、その人の人格を受け止めること、と言っても言い過ぎではないと思っています。
人にはさまざまな感情があります。特に自殺を考える人の感情は、不安、虚しい、悲しい、寂しい、怖い、憎い、腹立たしい、情けない、嫌い……などいろいろです。これらの感情が複雑に絡み合っています。
そして、「死にたい」という想いも一つの感情です。さらに「死ぬのは怖いけど生きたくない」「生きていたいけど死ぬしかない」という相反する想いもその人の本音だと思います。
それらの感情が、否定されずに受け止められた時、人は安心感を得られるのです。自分には理解者がいる、仲間がいるという想いに繋がっていくからではないでしょうか。
自殺は人がするもの。自殺防止も人がするもの。人と人との関わり合いは、感情と感情の関わり合いだと思います。人間は感情の生き物だということを改めて感じます。
「不安、虚しい、悲しい、寂しい、怖い、憎い、腹立たしい、情けない、嫌い……」
こういう感情を受け止められる人が、いかに少ないか。
そんな暗いこと言わず、がんばれ! 明るくいこうよ!
それは確かに優しい励ましです。
しかし、明るくなりたくても、どんなにそう願っていても、
懸命に努力しても、そうなれないとしたら、どうでしょう。
その励ましは、逆に、まるでトゲのように心に突き刺さります。
明るくなりたいのは山々だけど、悲しいんだ、辛いんだ、泣きたいんだ…
その気持ちをつっぱねないでくれ…と思うでしょう。
だから、わたしは思う。
1000年に一度の大震災で、
どうにもならないような深い深い悲しみ、辛さ、不安を抱える人がたくさんいらっしゃる今。
身近に辛い気持ちを抱える人がいたら。
その人を励ます前に、まず、感情を受け止めよう
それはきっと、励ますよりも難しいこと。
だけどわたしたちにはできる。心を寄せて受け止めよう。きっとできる。
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いただいてきた「禅の友」ってこんなの。
3月号はにゃんこが表紙。ほっとするね。
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ロウソクの明かりで上手に夜を過ごすにはどうしたらいいんだろ?…今のわたしの課題です。
良いアイデアがありましたら教えてください。
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って、こんなのあまりにも微力で…
やはりスーパーやデパートの電力は大きいと思う。今どこも薄暗くしているけど、別に不便じゃない。
そもそも日本のスーパーやデパートって明るすぎたよね。そんなふうに思っている人も多いのでは。
ヨーロッパなんかは、ちょうどこのくらいの明るさだったかも。
3月11日、旅行先の京都に着いて街を歩いているとき、東北〜関東で大震災が起きた。
京都は震度2。全然気づかなかった。
わたしは横浜から、友だちは福岡から、真ん中あたりで会おうということで選んだ地が、京都。
約1年ぶりの再会を喜び合い、「塩芳軒」さんという、京都御所真ん中あたりを西に15分ほど歩いたところにある和菓子屋さんで、地震が起きたことを聞いた。
「相当大きいみたいですよ。どちらからいらっしゃいました?」
とご主人。
わたしたちがそれぞれに答えると、
「福岡は大丈夫ですね。横浜はかなり揺れたんじゃないですかね…今テレビでずっとやってますよ」とのこと。
地震!
すぐさま家に電話するが、通じない。
その後、漬物やさんで、御所で会ったご夫婦と…行く先々でその話題で持ちきり。
でも、家族と連絡がとれないし、テレビもラジオもネットもないので、正確なことが全然わからない。ピンとこない。
とんでもない規模の地震であったことがわかったのは、その日の夜。
ユースホステルにチェックインし、テレビを見てからだった。
家が津波に飲み込まれ、流されていく映像。現実とは思えない。何が起こっているのかわからない。悪夢のような現実に頭が混乱する。
ようやくメールで家族の無事も確認できた。
かなり送受信にタイムラグがあったようだ。
しかし本当に被害の大きさがわかってきたのは翌日帰ってきてから。
そして、翌13日(日)はずっと友人知人とメールや電話をしていた。
何しろわたしはその揺れを経験しなかったので、現実感がないのだ。浦島太郎のようで。
連絡をとったみんなは無事で、安心した。
被害の大きい地域に実家のある人も無事で、本当に良かった。
だけど、気持ちは複雑。
町が丸々流されたのだ。考えられない人数の方が亡くなった。
行方不明の方、避難生活を強いられている方…
ただただ、もう、どれだけ無念か、心配か、悲しくてやりきれないかと思うと、涙が出て、どうかがんばってほしい、と祈るしかなくて、だけど、わたしには何もできなくて。
今日で地震から6日目。
余震が続いている。京都から帰ってきて、これか…と思ったけど、帰ってきたのは12日だから、これでも落ち着いてきたころだっただろう。
だけど、気象庁は今後、また大きな地震が起きると発表している。
テレビは被災地の深刻な状況を伝える。
家族が見つからない心配、全財産を失った悲しみ、余震の恐ろしさ、
避難所での大変な生活(食料・飲料の不足、灯油・毛布の不足、医療スタッフや医療品・薬の不足…何もかも足りない状況)…
そして原発からの放射能漏洩…
それを思えば関東地方(首都圏付近)の計画停電、交通機関の乱れなどは、どうってことはない。
とはいえわたし自身も落ち着かない日々が続いている。上空では一日中ヘリコプターの音がしている。
また大きな地震が来るかもしれないと、皆が怯えながら暮らしている。
この未曾有の非常事態に、考えがまとまらなくて、言葉を失って、
ブログもこうしてうまく書けなくて、ツイッターも書き込めない。
ツイッターは、わたしなんかが下手につぶやくよりも、有用な情報が流れたほうがいいと思うから、黙っている。
わたしにできるのは、まず祈ること、そして節電に努めること、募金をすること。
正しい情報を得るよう努めること。
それから、被災地に行って助けることができなくても、心を寄り添わせることはできる。
そうすると涙が出るけれど。
辛い気持ちでおられる方の気持ちに寄り添いたい。気持ちを受け止めたい。
人間同士はそんなふうにして、ほんの少しでも気持ちを楽にし合うことができるはずだと思う。
わたしの友人知人で不安な気持ちでいる人は、わたしに、いつでもメールなり電話なりしてください。
その気持ちを受け止めることはできるから。
本当に小さな安心感だけど、
だけど、だれかが気持ちを添わせてくれることがどんなに嬉しくて心強いかってこと、
わたしはよくわかるから。
日本の皆さん、落ち着こう。力を合わせよう。
みんなで被災地のことを考えて行動しよう。自分にできることを考えよう。
節電に努めよう。関東の皆さんは、食料を買い占めたりしないようにしよう。
今こそ、どうにかして、人間のもっている良い面と、知恵を生かしたい。
近ごろ不思議に思うこと。
「おうち」という言葉を、さも丁寧語のようにして使う女性がいますが(しかも自分の家を指して…)、
これって丁寧語ではなくて、本来幼児向けの言葉なのでは。
葉書などの短い文章の最後につける「取り急ぎお礼まで」って言葉はメールでも使われているけど、
そのあとに「失礼します」みたいな言葉をつけないと失礼にあたると思っている人がいたり。
「取り急ぎお礼まで」で終わって問題ないのでは。
ひとつの慣用的な表現だし、「失礼します」は省略されているのでは。
向田邦子さんが、身内が死んだときは「亡くなった」ではなくて「死んだ」と書くのが正しいというようなことを書いていたかと思うけど、今や「亡くなった」が正しいと思っている人が多数だと思う。
失礼でもなんでもない表現が失礼とされ、
おかしな敬語、過剰な敬語(二重敬語しかり)が正しい敬語としてまかりとおっている…。
ううーーむ。言葉は世につれ変わるものだけどさ、仕方ないんだけどさ。
わたしも現代人だから崩れた日本語使ってると思うけどさ、でも違和感を覚えることがあるのよね。
何が嫌って、「美しくない」ってことなんだ。
だから『東京物語』みたいな昔の日本映画観ると、あぁなんて美しい言葉だろう、って思う。所作もね。
まー日本の美ってのはどんどん薄れていくね。
英語も勉強したいが『東京物語』も観たいな。美しい日本語聴きたいから。
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全然関係ないけど写真がないと寂しいので、パリのお花屋さんにて撮った写真をアップ。
それぞれの国にそれぞれの美があるよね(こじつけ的コメント)。
1、2、3、4…もう4つか5つくらい、もみじ市のことを書いているブログ記事を目にしている(10月23日、24日開催)。
もう何年も前から気になっているのに、今年も忘れていた。行ってみたい。行ってみたかった。来年こそは覚えていよう。
あと10月10日の京浜ロックフェスティバル。これまた去年から気になっているのに。あぁ行きたかった! 今年は東京ローカルホンク+鈴木茂氏。すごい。
これまた来年こそは。
「行ってきた」という記事ではなく「行きたかった」というなんじゃらほいの個人的な覚書にてすみません。
でも、日本語にはたくさんある。
女の人だと、わたし、あたし、わたくし…くらいだけど、
男の人は、ぼく、オレ、わたし、わたくし、自分…など女性よりたくさんありますね。
最初出会ったときは「自分」とか「わたし」とか「ぼく」なのに、親しくなってくると「オレ」と言い始める…
そんなとき、素顔を垣間見たようで、その人との距離が少し縮まったように感じます。
最近ちと考えているのが、書き言葉における一人称の問題。
「わたし」か「私」か。
わたしが「わたし」という表記を用いていることは、このブログやソイポケを読んでくださってる方はお気づきでしょうが、これは5、6年くらい前からかな…
尊敬するエッセイストの方が「わたし」とお書きになっていて。
そっか、「私」と書くと「わたくし」とも読めるし硬い印象があるし、
もともとひらがな好きだし(丸くてかわいい)、
「わたし」って書くの、いい! わたしもこれからは「わたし」でいこうっと! と思って使い始めたのでした。
しかし最近「わたし」はちょっと主張が強いんじゃないかと感じ始めていて。
「わたし」は「私」の3倍の文字数だしね(笑)
何か非常に「わたし」「わたし」と主張しているような、そんな気が…「私」のほうが1文字ですっきりして、おとなしくてよいんじゃないかと。
気になり始めると気になるもので、
最近、使用頻度を減らすよう、気をつけているのです。
日本語はもともと主語を省く文化ですし(古典でお勉強しましたねー。敬語で主語を類推するっていう、あれです)、極力「わたし」と書かないようにしたり、「自分」と書いてみたり。
そういえば、会話において逆にあまり一人称を使わない友人がいて、
「え?だれが!?」
ってよく聞き返してたことがある。
そこでようやく「オレが」と返ってくるのだけど、主語がないと何やら絶対的な意見のように聞こえることがあって、ちゃんと「オレは」と言ったほうがいいんじゃないかとほのめかしたことがあったっけ。
けど、あれは日本的な奥ゆかしさだったのだな!?
そんなこともあって、むしろ絶対的な意見にならないよう気をつけるという意味で、
「(みんなはどう感じるかわかんないけど)『わたし』はこう感じた」
としっかり言ったほうがいいと思っていたのだけど、
先に書いたように、書き言葉にすると(しかも「私」→「わたし」にすると)、逆に主張が強すぎるように読まれていたかもしれない…
それはまずい。
でもやっぱり「わたし」は使おうかな。使用頻度を少し控えめにして…
やっぱりこの丸い感じが好き!
あー欧米圏の方々には絶対わからないであろうこの繊細な悩み…
あの方々は、何か言うときは必ず「I」から始めるんだものね。
I love hiragana which has round shape! So,I use the word of Watashi
(大体合ってるかなぁ…英語、勉強しなくちゃなぁ…)
↓下で書いたことの続き。
基本的には「伝え合うことが大事」と思ってるし、
表現する人に言葉をかけることは本当に重要だと思ってる。
とはいえ、なんでもかんでも言葉にして伝えればいいってわけでもないのだろう。
言わないほうがよかった、聞かないほうがよかった、ってことも多いのかもしれない。
矛盾したこといってますね。わかってるんだけど。
そんじゃ、どーすりゃいいのか?
人付き合いの極意とでもいうもの? こりゃ一生のテーマだね。
「わかった」と思ったらまた出会ったこともないようなパターンに遭遇しちゃったりしてね。
そんな複雑な人間関係のからまりのなかを、すいーっすいーっと泳いでいけたらいいな。
誉めるのがうまい人というのは、人の良いところを見つけ出すのがうまいのだ。
そういう力をもっているのだ。
それを素直に、自然に口に出す人には、とても好感がもてるし、
自分自身に対して言われたときは、大変励まされる。
でも、意外とこういう人は少ない。
そういう力をもっていなくて、的外れな「お世辞」になってしまう人もいる。
だから「誉める」ってじつは難しいことなのかもしれない。
また、力はあるけれども口に出さないという人もいる。
なぜなんだろう。
日本の文化、日本人的な気質というのもあるだろうね。大いに。
以心伝心というやつ。
何も言わなくてもわかりあえる。奥ゆかしくて、慎み深い、わが日本の良き文化。
でもさ、言わなきゃ伝わらないってこと、すっごく多いよ。
言っても言っても伝わらないくらいなんだから、人間同士ってのは。
わたしが最近強く思うのは、とくに、何かを表現して生きている人には言葉をかけよう、ってこと。
音楽やってる人、絵を描いてる人、文章描いてる人、役者やってる人、踊りやってる人…
「いい」と思ったらそれを口に出そう。
そうじゃないと、彼らは孤独だ。あまりにも孤独で、ダメになってしまうこともある。
数年前に自殺したミュージシャンの訃報に接したときにも、
彼には、もっと評価する言葉が必要だったんじゃないか、って思った。
きっと、才能を認めている人はたくさんいたはずなのに、口に出す人が少なかった。
それで才能ある人がつぶされてしまうというのは、日本人的気質が悪いほうに出たということだと思う。
よいと思っているのに言わない。言わなくても伝わるだろうと思ってる。
これ、ダメです。きっと伝わってないですよ。
言葉に出そうよ。言いましょうよ。それで表現する人たちがどれだけのエネルギーをもらえることか。
その言葉が生きる活力となるんです。創造の源にもなるんです。
もちろん普段の人間関係でもね。できるだけ伝え合おうよ。ね。
『ゲゲゲの女房』見てると、出版業の大変さが恐ろしいほど伝わってくるよ。
実感をもってわかる、とは言いすぎだけれど、少しはわかる。
ソイポケ廃刊なんて、おままごとみたいなもんだなぁ、と思う。
でもソイポケは商売じゃないから話が別。ソイポケは、あれでよかった。世間の厳しさを知らない、純粋培養の箱入り娘ね(笑)
水木しげるさんが話していたとおり、いやはやまったく、この世は地獄やね。
それは資本主義のお化けのせいなんだ。小沢健二の『うさぎ!』とエンデの『モモ』を改めて読み返したら、いっそうそう思えてきた。
でも、そしたら何主義がいいんかなー。わからんなー。