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わたしは3.11後、原発がとんでもない代物であったことを初めて知った。
本や新聞を読み、知れば知るほど、人間がこんな危険なものと共存することはできないと思うに至った。
いてもたってもいられず、2011年夏、生まれて初めて、思い切って1人でデモに参加。
そのときの記事。
11月8日(火)9.19「さようなら原発集会&デモ」武藤類子さんの演説
(映画では、この集会をきっかけとして一度盛り上がったが、新宿のデモで逮捕者が出たことで2011年後半は勢いが弱くなったと説明されていた。だが翌年2012年3月より首相官邸前の金曜デモが始まり夏にかけて盛り上がっていく。)
翌年も同じ集会に行った。このときはむーと一緒に。
7月18日(水)7月16日「さようなら原発10万人集会」のこと
7月19日(木)今こそ声を上げよう(デモ+パブコメ)
デモが盛り上がり、新聞に取り上げられるようになってきた。
ここに載せた新聞記事の写真の人が小熊英二さん。
7月22日(日)首相官邸前デモに行ってみた
毎週金曜に行われているという噂の首相官邸前デモに行ってみた。
しんどいなーという気持ちや、違和感なども率直に書いている。
金曜デモ(首相官邸前デモ)もすごかったけど、何しろすごかったのが7月の国会包囲デモ。参加者はなんと20万人!
あれだけたくさんの人が国会を包囲し、本気で反対を訴える様子は圧巻だった。あの光景は一生忘れない。
こんなことが日本で起こるなんてと信じられないような気持ちだった。驚きと感動で胸がいっぱいになった。誇らしくもあった。歴史に残る、教科書にも載るような事件だと思った。
ブログ記事はないけど、twilogを調べたらありました。そうだ、7月29日(日)19:00から行われたんだった。こんなふうに書いてた。
「国会包囲すごかった!! 国会正門前にいたのだけどその盛り上がり方がすごかったの! これは日本の歴史に残る…かつて(安保以来か)こんなデモがあっただろうか…感動しました。」
いろんな思いはありつつ、勇気を出してデモや集会に足を運んだのは、政治的な活動ではなく、一個人として、暮らしと命が何より大事じゃないかと訴えたかったから。
マスコミの伝える情報ではなく、実際に何が起こっているか知りたかったから。
ゲストや参加者のお話も聞きたかったから。
ただそれだけだった。
電気のために誰かの人生が壊され、命が失われる。そんなことがあっていいはずがない。
1人の力は弱くても、たくさんの人が集まれば、大きなうねりを生むことができるんじゃないか。ドイツみたいに、日本が原発をやめるという選択をするチャンスだと思った。だからここでがんばらなくちゃって。民意で国を変えられたら本当に素敵だって。
国を動かすのはわたしたちであるはずだった、民主主義ってそういうことじゃないか! って初めて気づいた。だから1人でも行動しようと思った。
「日本の人は自覚していないようですが、あの運動はNYのオキュパイ・ウォールストリートや 日本の全共闘運動などよりずっと大規模でしたし、香港の雨傘革命や日本の60年安保闘争より成果をあげていた。それが記録されないまま忘れられるなんてことは、見過ごせないと思いました。」
「全共闘運動の最大の集会は、68年11月の東大安田講堂前で、2万人でした。(略)数からいえば、20万人が集まった2012年のほうがずっと大きい。また組織動員もなく官庁街を埋め、首相と会談し、時の政権に制作を変えさせた運動など、世界にほとんど例がない。NYでも香港でも、できなかったことです。メディアが大きく報道しなかったので、それがよく知られていませんが、記録することは必要と思いました。」
(小熊監督のインタビューより)
そんなにすごいことだったとは。
確かに、新聞でもテレビでも、大きくは取り上げられなかったなあ。小さな記事では出ていたけどね。
あまりにも純粋で天才。苦悩を経たのちの歌声がまた素晴らしい。エンディングの「ラブ&マーシー」が泣ける。
前半眠くて死にそうになっていたので、もう一度観たいなー。
『天のしずく 辰巳芳子 いのちのスープ』を観てきました。
じつに素晴らしい映画だった。期待以上でした。
最初から最後まで泣きっぱなし。恥ずかしながら…。
どうして涙が出るのかうまく説明できない。
辰巳芳子さんの食材に向かう姿勢が真摯だから、
その手仕事が美しいから、含蓄のある言葉が心を打つから、
料理が厳かな行為であることが伝わってくるから、
自然の映像が美しいから、子どもたちがかわいいから……
どれもその通りなのだけど、それだけでは表しきれない。
辰巳さんの著書『味覚日乗』を読み返し、藤田千恵子さんによる「解説」に、はたと膝を打つ。
「辰巳先生は、料理研究家と呼ばれる、しかし、愛情について綴る随筆家なのである。」
「辰巳先生の言葉が私たちの心にまで届くのは、『心を手足に添わせ』日々の仕事を続けてきた人ならではの『実感』から発せられた言葉だからだろう。そして、その言葉の根底には常に、『愛されてきた者としての記憶』が脈々と流れて、それが私たちの心を打つのである。」
そうだ、わたしが涙したのも、きっとそのせいだった。
自分の愛されてきた者としての記憶も呼び起こされるからでもあったと思う(にしても泣きすぎだが)。
辰巳芳子さんは、父の最期を看取った「いのちのスープ」が全国で多くの人に飲まれ、近年静かなブームになりましたが、
わたしには幼少のころより親しみ深い方。
お母さまの料理家・辰巳浜子さんの『娘に伝える私の味』や、
芳子さんの『手塩にかけたわたしの料理 −辰巳芳子が伝える母の味』等の著作が家にあったし、
人となりについても、母からよく聞いていたので(主にお母さまの浜子さんについて)。
わたしは自ら、上記、『味覚日乗』など著作物もいくつか読んでた。
ただ、映画は視覚的にもっとたくさんの情報を伝えてくれる。
丁寧な手仕事の実際、話される厳しくも優しい言葉の数々(ユーモアに溢れてもいる)、
凛とした立ち居振る舞い、上品でお洒落なお召し物まで。映像ってすごい。
こんな手をかけた料理は、余裕のある主婦にしかできない、そんな時間はない、という声もあるかもしれない。いや、きっとあるんだろうな。
でも、映画の中にあった、
・料理の後片付けができないような子どもをつくってはいけない
・なるべく自国の作物、旬のものを使うようにする
そういうことは誰にでも、心がけ次第で可能だと思うのです。
また、けんちん汁を作るときに、「野菜が嫌がらないような混ぜ方」を心がけるように、
というお話もあって、これを面白いことに、体の洗い方に例えられる。
小さいころお風呂で体を洗ってもらうときに何人かの大人が代わる代わる洗ってくれるのだけど、
「ああ、この人に洗ってもらうのは嫌だな」という人もいたのだと。
そういう、野菜が嫌がるような混ぜ方をしてはいけない、とおっしゃる。
すごくよくわかるなぁ、と思った。
つまり相手の気持ちになって考える、ということ。
人と人との間で大事なことは、料理においても大事だということ。
こんなふうに、自分なりに小さなヒントが得られればいいのかな、と思う。
わたしなんか、さっそく翌日に野菜を優しく優しく混ぜてしまったよ(笑)。
映画は医療、ことに終末期医療にも話が及ぶ。
辰巳さんのスープを取り入れたいと、「スープ教室」に現役のドクターが学びに来る。
海のものや山のものの旨みが凝縮された、滋味にあふれる食べ物。おつゆ、スープ。
体の自由が利かなくなる人生の最期においてものどを通る、まことに優しい食べ物。玄米と梅干のスープを一口飲んで「うまい!」と口にする患者さん。
最後に、辰巳さんの言葉より。
「海、山、畑の恵みを渾然一体化し、最も吸収しやすい状態にした食べ物、おつゆ。
この言葉の表現には、天の露のイメージがありありと見える。
露を受け、生き返る地上のものたちと、人々が露をいただき、
息づいた瞬間を重ね、思わず…おつゆ。
日本人ならではの愛の発露ではないか。」
「昨今のうたい文句『簡単即席』に人間が生命を全うしうる真実があるでしょうか。食ということは、あまりにも当たり前なことですので、ついに日常茶飯の扱いになります。でも、本当を申しますと日常茶飯ほど、これなくしてはやれない、生きていかれないことが多いのです。料理は、本当に食の一端でございますが、ですけれどもその小さな一端にありながら、生きていく全体に対して一つの影響を及ぼしてまいります。食べごこちを創っていくということは、最も基本的な自由の行使。そして料理を作る事は、自然を掌中で扱うことなのです。それは人間にのみ許された厳粛な行為だと思います。」
公開にあたっての言葉より。
「愛することは 生きること。
それゆえ 愛といのちは同義であり、一つと考えます。
この愛の本意はどこにあるのでしょう。
おそらく、それは 神仏、人、もの、ものごとの上に
善きことを願う志向にあるのではないかと思います。
ですから、すべての「在る」ということが
この一点に収斂されることを 願い求めます。
そのときを待ち望みながら、今の世に応える命題が
映像という一つの形になることを、望んでおります。
映像は風土と人、人と人、ものと人、ものごとと人が
描かれる場ではないかと、思います。
生きることは、愛を貫くこと。
貫いた方、貫こうとする方々
その姿に、希望は宿っております。
ごらんいただきとうございます。
二十三年 こぶしの頃 辰巳 芳子」
ある日、「夫は太っていて手足が短く、体に合う既製服がない」
と、ぼやく人あり。
「自分は既製服で合うサイズがあり、色々選べる」と言う彼女からは、
既製服が体に合わないことが劣っていて、
合うことが優れているといった意識が見え隠れするのだった。
そうだこの世はいつも多数派が強い。
でも多数派に合わせた既製服が、すべての人の体に合うわけはない。それは優劣の問題ではない。
少数派だから「劣る」わけではないのだ。
当たり前だけど、勘違いしがち。多い=優れている、になりがち。
先週、『情熱のピアニズム』という映画を観た。
ミシェル・ペトルチアーニさんというジャズピアニストの、36歳の生涯を描いたもの。
ペトさんは骨形成不全症という先天的な障害のため、身長は1mしかなく、演奏中に骨が折れるということもあったそうだ。
「僕は普通の人にはなれない。
特別な人になりたいんだ。
僕はどんな人とも違う、違っていいんだ
同じであるはずなんかない。
僕には僕の感じ方があり、僕だけの表現がある。
人との違いは不自由なことなんかじゃない。
ただの個性なんだ。
何の不満がある?
僕は愉しんでる。
十分に人生を愉しんでいるんだよ。」
一体「普通」って何だろうかと改めて。
健常者と障害者(という言い方も嫌だが)の違いは、「優劣」ではなくて、「違っている」というだけのこと。
健常者が多数派の世界では、障害を持つ人は時に不便だというだけのこと。
いや、「だけ」などと簡単には言えないことはわかっている。
だけど多数派(健常者)側のそういう意識はすごく大事だと、これまた改めて。
映画は驚きの連続だった。
小さいときから人並みはずれたジャズピアノの才能を発揮して周囲を驚かせたり、
ジャズのメッカNYに移住し7ヶ月で英語をマスターしたり(ペトさんはフランス人)、
女性が大好きで次々と恋をしたり。
ペトさんはユーモアがあって社交的で、いつも皆でわいわいと楽しくしているのが好きで、という魅力的な人で。
超一流のジャズピアニストで。もちろん耳もすごく良くて。
(でも、演奏シーンより証言のほうが多い映画だったので、今度はぜひ演奏にじーーっくり耳を傾けてみたい。)
彼を評して「150%で生きた」という証言があったけど、それどころじゃない、と思った。200%か、それ以上で生き抜いた人。
ただただ、すごい人だと思った。
唯一無二の、特別な人だと思った。
銀座で『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』を観てきた。
その昔ヴァイオリン弾きのSちゃんとグールドの映画を観たっけなぁ。あれも確か銀座だった。
今回の映画は、グールドが親しかった人たち、とりわけかつての恋人たちの証言をもとに人間グールドの実像に迫ろうとするもの。
小さいころの話、若いころの話、晩年(グールドは50歳の若さで死去)の話、
エピソードの数々が興味深く、グールドの語ることもその様子もおもしろかった(早口なの)。
あの独特のうなり声(歌い声)は、小さいころにお母さんから歌いながら弾くように教えられて、それが癖になっちゃったんだとか。
独特の粒だった音は、教わっていた先生の指導によるところが大きいとか。
同じ先生に教わっていた女性が弾いてみせてくれたのが、グールドの音とそっくりだったのでびっくりした。
かつての恋人は「知的でユーモアがあった」と言っていた。
いつまでしゃべっていても飽きなかったんだって。
そうだったんだなぁ。
イケメンで、知的でユーモアがある天才…そりゃあ魅力的だよね。
だけど結婚には結びつかなかった。
芸術と結婚という安定とが両立しえなかったんだと。だから生涯独身だったのだと。
ブラームスの言葉を引用したりして語られていた(ブラームスも生涯独身でした)。
芸術家は本当にそういう人が多いですね。家庭をもっていても破綻したり。
常に新しいものを生み出していかなくてはならない、創造的であるということと結婚という形は相容れないものなんだろうか。
その意味でグールドは典型的な芸術家だったといえるのだろうなぁ。
でも、息子の結婚を意識させまいと、親友の結婚式に両親を参列させようとしなかったり、
そんなごくごく普通の感覚、愛情ももっていた。優しい人だったんだと思う。
お母さんが入院したときには感染を恐れて病院にお見舞いに行かず、
死に目にも会えなかったことを生涯後悔していたという。
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自前の異常に背の低い椅子に座り、歌いながら奏でるのは従来とまったく異なる演奏。
そして晩年はレコーディングに没頭。コンサートからは足を洗ってしまった。
これは今のポップス的な音楽の作り方…。
先取りしていたんだなぁと、この点でも一歩先を行っていた人だったのだと改めて思った。
わたしは大学生のころ、ベートーベンのソナタ「月光」(特に自分が弾いてたから印象的だった)を聴いて、あまりに速くて、しかもその正確な粒だった音、酩酊するような見事な演奏に腰を抜かした経験があります。
クラシックでこんなことやっちゃっていいの!?って。
ピアニストのアシュケナージさんが「なんだこれは!」とびっくりしたと話していましたが、誰もがそう思うに違いない。
「グレンは音楽を一度ばらばらにして再構築する。時計を分解して再構築するように」
って証言があったけど、あぁ、なるほど…
あの演奏はそういうふうにして生まれているんだなぁ。すごく納得がいく。
だから他の演奏家とはまったく違うんだ。
実はわたしはグールドの演奏って以前はあまり好きじゃなかった。
声が入っているのも邪魔だと思っていた。
天才だと思うし、人となりにもすごく興味があったけど、好き嫌いでいえば大好きというわけではなかった。
でも今回映画を観て、また違った聴き方ができそうだなぁと思った。
「芸術家には何よりもオリジナリティが大切だ」「音楽の素晴らしさを届けたい」という姿勢や思いがよくわかったから。
象に向かって歌を歌ったり前衛映画みたいのに出て変な踊りを踊ったりしてる映像もあった。
笑ってしまったけど、貴重な映像だね。
音楽に人生のすべてを捧げた人。いつもいつも自分の音を表現していた人。
グレン・グールドという人が大好きになりました。
また観たい映画です。
さっそく演奏を聴いてみようと思って引っ張り出してきたら3枚ありました。下のがわたしが腰を抜かした、「月光」も入ったベートーベンのソナタ集。
で、気づいたのだけど、かの有名な「ゴールドベルク変奏曲」はどこ行っちゃったの?? 探しても、ない!誰かに貸したんだっけ?
わたしすぐ人に貸してしまって返ってこないことがあるからなぁ…
これ読んでくれていて、そういえば借りてる!なんて心当たりのある方がいらっしゃったらご一報を〜!(ないと思うけど^^;)
人と人が出会って、他愛もない話をして、コーヒーを飲んだりパンを食べたり、お豆腐やさんの店先でお豆腐を食べたり、夜になったらウイスキーを飲んだり、ただそれだけの映画です。
心地いいなと感じる色んな音がする。
水割りをつくるときの、マドラーで混ぜるカラカラという音。
お豆腐を水からあげるときの、ちゃぽんという音。
かき揚げを揚げるときの、パチパチという音。
目にも心地いいよ。
ウイスキーの琥珀色とか、そら豆の緑とか。卵焼きの黄色とか。
あ、それは料理をするときの喜びに近いのでは。それを映像で見せてくれてるような。
のーんびりと生活している人たち。
わたしもこの人たちの中に、加わりたい。お豆腐やさんのお豆腐をスプーンですくって食べたい。
もたいまさこさんがまたもいい味を出していて。粋なおばあさんを演じておられました。
「今日も機嫌よくおやんなさいよ!」。
わたしもこんな言葉をかけられたいよう。
でも、たぶんこれ、すごく当たり前の世界。
ああ、いいなあ、
って観る人が感じるってのは、当たり前が失われちゃってるってことなのかも。
マスコミ試写会で韓国映画『ハーモニー』鑑賞@ショウゲート試写室(渋谷)。
コーラス好き、感動もの好きとしてはぜひ観たい、そして2月号のネタはこれで決まり!
と安心していたわけですが、ダメだ紹介できないや…(配給会社さんごめんなさい)。
いや、これでもかと泣かせてくるので大泣きしましたが…
ベタなんです、何もかも。
昔の大映ドラマみたい。ベタで突っ込みどころ満載、っていう…
受刑者各自がそれぞれの事情を抱えた女子刑務所。その中で合唱団が結成され、感動のステージを行うというストーリーなんですが。
刑務所の中で出産し、18カ月しか一緒にいられず、法によって引き裂かれた母子。その再会。泣けないわけがないです。でもベタすぎる。
最初は下手だった歌が見違えるように上達して…ってのは観る前から想像できた展開ですが、その「下手」が下手で…つまりわざと下手に歌っているのが丸見え。わざとらしいんですよ…
最終的には、ありえないほどうまくなってるしさ〜。
そして、はしゃいでるとき、ふざけているときのテンションの高さはなんでしょか!?
やたらと喧嘩っ早いのも、なんでしょか!?
って、しつこいですが、泣くんですよ。それも号泣です。
人生にはなんて悲しみが多いんだろう、と…
でもなぁ〜、これを紹介するのは無理だ〜
ああ、ネタが決まったと思ったのに…! 何にしよう…2月号…
彫刻家ノグチイサムの母、レオニー・ギルモアの人生を描いた映画『レオニー』を観ました。
監督の松井久子さんとは取材関係でお目にかかったことがあります。
ノグチイサムではなく、その母に焦点を当てるのは、女性監督ならではの目のつけどころ。
ノグチイサムの父親は詩人でした(知らなかった!)。
野口米次郎(ヨネ)といいます。
渡米中に編集者・レオニーと出会う。
そして二人は恋仲となり、レオニーは妊娠。生まれたのがイサムでした。
レオニーはイサムを連れ、日本に帰国したヨネのもとにやってくるが、ヨネは日本女性と結婚していた…その身勝手ぶりには驚きました。
学び、働き、愛し、傷つき、子を思い、苦悩し、
しかし強く、誇り高く生きた、一人の女性の人生が描かれていました。
最後の桜のシーンが美しかった。
■『ドアーズ/まぼろしの世界』
mixiのコミュで情報を知り、新宿武蔵野館にてさっそく観てきた。都会ってこういうときは便利。
上映前からドアーズの音楽が流れていて、レイ・マンザレクのオルガンに胸が高鳴る高鳴る。
ドキュメンタリーなどで観たことのある映像もあったけれど(飛行機から降りて一人ずつ名前を言うところなど)、未発表映像もあるとのことで、充実の内容。
1時間25分に、ドアーズのすべてがぎゅっと凝縮されている。的確に、無駄なく。
27歳で死んだジム・モリソン。自分にはとてもあんなふうには生きられない。ある意味迷いがない生き方ではないかしら。
・ドラムのジョン・デンズモア:ジャズで鍛えた予測不能なドラミング。
・ギターのロビー・クリーガー:フラメンコギター出身で、ピックを一切使わない。
・オルガンのレイ・マンザレク:左手でベースを、右手でバッハ風のメロディとコードを奏でる。
・そしてジム・モリソン:初心者ボーカリスト。詩人。ロックスター。
この4人による音楽は、暗くて、切なくて、奇妙で。
わたしもそうなのだけど、多くの人が、急き立てられるような、鼓舞されるような、そんな気持ちで聴いていたのではないかと思う。同時代の人は、もっともっと激しく、思い入れをもって。
ナレーションはジョニー・デップ。
詩の創作は孤独だ。とくに栄光(←すみません忘れました…舞台の華やかさ、というような意味でした)を知る者には。
(ここでステージでライトに照らされるジム・モリソンが映し出される。)
といった切れ味のいいナレーションが小気味いい(ジョニー・デップが文章を作っているのではないだろうけど)。
ロック系のドキュメンタリーにありがちな、メンバーや周辺の人たちによる回顧的な(そして冗長な)インタビューが皆無なのもいい。
センスのいいロックドキュメンタリー。観てよかった。
ドアーズが大好きで、コピーバンドまでやっていたのに、語れる人がいないことがちょっこし寂しい。
元メンバーの皆さん、もしここ見ていたらメールくださーい。
舞台は日本に移されていたんだね。知らなかった。
原作に忠実といえば忠実だったけど、原作以上ではなかったなぁ。
わたしが好きな、アリエッティが男の子に得意げに本を読んであげる場面(確か川べりに花びらが舞っているような美しい場面だったかと…映像化されると思ってた)とか、アリエッティが男の子に、「人間のものを『借りて』暮らしている」と説明したとき、男の子から「それは『盗む』ではないか」と言われて憤慨する場面…がなかったのが残念だったな。
アリエッティが「人間は自分たちに仕えるものとして存在している」と思っているというのも省かれていた。これ、かわいくてユニークな視点だと思うんだけど。
小さく、きれいに、わかりやすくまとめたという印象でした。
あとお父さんがすごくかっこよく描かれてた。無口で、頼りになる働き者の男性…という感じで。
わたしは岩波の挿絵の影響で頭の薄い普通のおじさんという印象をもっていたので(笑)、あまりのかっこよさに、ちょっと驚きました。
メイド役の樹木希林と、お母さん役の大竹しのぶ(声優)がよかった!
久々に「ジャック&ベティ」で映画を観る。1年ぶりくらい!?
スタッフのKさんらとあいさつを交わす。
映画館は無事運営されている。よかった。
『地下鉄のザジ 完全修復ニュープリント版』。生誕50周年を記念して、らしい。
一度観たことがあるんだけど(ええもちろん『Olive』で知ったのだと思う)、ちっとも覚えていない。
オシャレ映画の元祖であり、そりゃもうめちゃくちゃオシャレでときめきますが、しかし同時にこのハチャメチャさといったら…
どうしたらこんな発想が生まれるのだろう?
ぶんぶん振り回されるような感じで、ときについてゆけませぬ。
お皿投げて人の顔にぶつけるのはドリフみたい(生クリームじゃなくて、ザワークラウトとソーセージだったけど)。
ピアノの上に兎が載っていたりするのは、突飛な組み合わせのコラージュみたいで可愛い。
恋に落ちるシーンで突如ブラームスの弦楽六重奏曲が流れたのも面白かった。やーん『恋人たち』〜!
最初のほうの追いかけっこのシーンが好きだな。
ザジのセーターはオレンジ色がぴったり。
ピンクは違うし、ブルーも違うし…緑も悪くないけどやっぱり女の子だし…と、どうでもいいことを考えながら観ていた。
オレンジ色のセーターは、原作に記述があるのだろうか。
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大寒なのに20度近いあたたかさ。